プラハモリ#03 プラハはどのように黄金の都に!?
Dobrý den!
はじまりました、プラハモリ!今回のテーマはチェコとプラハの隆盛。
チェコに長期的な王権ができ、その王権のもとチェコが繁栄を迎えるまでの歴史を辿っていきましょう。
プシェミスル王朝の隆盛
東フランク王国と従属的な同盟を組む情勢下のチェコでは、16もの公国ができ、部族間の闘争が頻発していました。しかし10世紀初頭、プシェミスル家のボジヴォイを中心にチェコはまとまっていきます。このプシェミスル家は、チェコ国内の交易ルートを抑えることで富を築いた、ヨーロッパでも有数の王家でした。
そして、彼らが目につけた場所こそがプラハ。南北に流れるブルタヴァ川と、東西を結ぶ交易ルートの交差点に位置し、東西南北の経済・文化の交わる絶好の地でした。交通の要所であるプラハの重要性に気がつくと、プシェミスル家はここに拠点を移し、商人を住まわせ、都市の繁栄に努めました。これがプラハ発展のはじまりだと言われています。
- 浅瀬では大型船舶の航行が困難。小さな船に荷を積み替えるため、大量の物資が集積される。
- 人や馬が渡れるほどの浅瀬なら陸上交通の一部としても利用される。
- 都市開発においても水深が浅い分、必要な土砂や労力が少なくて済む。
特に二点目に関して、プラハは東西交易ルートにおける重要な渡し場だったことから、浅瀬であることがプラハの発展の鍵だったと考えられます。
さて、拠点をプラハに移したプシェミスル家はプラハの四方を囲む丘に城砦を建てます。そしてプラハの南東の丘に建てられたのがヴィシェフラドVyšehrad。チェコ語でvyše=高い、hrad=城の意を持ちます。
このヴィシェフラドはスメタナの『Má vlast(我が祖国)』でも歌われるほどチェコのナショナリズムにつながる場所であり、さらに黄金の都プラハのゆえんを紐解く鍵となる場所でもあります。それには、予言者でもあったプシェミスル家の王女リブシェにまつわるこんな伝説が伝わります。
ヴィシェフラドに移り住んだリブシェは予知夢を見た。「この地の北には丘に囲まれた街があります。その地はとても繁栄し、その永遠の輝きは空の星に届くほどになるでしょう」。この予言によってリブシェの夫プシェミスルはその地に城を建て、その地をプラハと名付けた。
チェコのキリスト教化
この時代において、キリスト教を受容することは、進んだ西ヨーロッパ世界の一員として認めてもらうというような意味も持っていました。9世紀末滅んだモラヴィア王国や、プシェミスル王朝の創始者ボジヴォイもキリスト教化を試みましたが、本格的にそれを進めたのがプラハの守護聖人の一人でもあるヴァーツラフ1世(在位921-935)です。
ヴァーツラフ1世はドイツのザクセン公から聖ヴィートの腕の遺骨を聖遺物として受け取り、これを安置するための聖堂を建立しました。これがあの、プラハ城の聖ヴィート大聖堂の始まりです。
さらにヴァーツラフ1世は、ドイツから宣教師を招くなどチェコのキリスト教化を推し進めます。そして東フランクの宗主権を認め(神聖ローマ帝国における領邦化)、チェコは晴れて西ヨーロッパ世界の一員として認められました。これにより、この当時脅威となっていたドイツの軍事圧力は緩和され、プシェミスル家はキリスト教布教の援助を得て国内支配を強めていきます。
ヴァーツラフ1世は弟との抗争の末暗殺されますが、国と民族を守った模範的なキリスト君主として語り継がれ、近代に入りナショナリズムが盛んになるとさらに民族主義の英雄としてとりあげられます。ヴァーツラフ広場には彼の像がありますが、この広場がプラハの春やビロード革命の舞台になったのはそんな歴史的背景もあるのです。
チェコ繁栄への道
こうして西ヨーロッパ世界の一員として認められたチェコですが、この時の国はまだ「ボヘミア公国」。それゆえチェコは領邦の一部にすぎず、王位も世襲ではありませんでした。また、教会に関してもプラハの司教座はドイツ・マインツ大司教の下におかれたため、ドイツの影響下にありました。
そんなチェコに追い風が吹き出したのが12〜13世紀。このころのヨーロッパでは、農業革命や気候の温暖化、封建社会の安定化などの要因を背景に、人口が増加し、経済活動も活発になっていました。もちろんチェコも例外ではありません。商業国家だったチェコはその恩恵を存分にうけ、好景気に沸いていました。
この波にのってボヘミア王プシェミスルオタカル1世(在位1198〜1230)は巧みな外交手段によってついに、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世からボヘミア王の世襲を認められます(シチリアの金印勅書 Golden bull of sicily)。
さらに、13世紀には中央ボヘミアの街、クトナーホラで当時のヨーロッパ最大規模の銀鉱山が見つかります。ヨーロッパ諸国はクトナーホラの銀を求め、チェコはさらに繁栄しました。
13世紀から14世紀にかけて、ヨーロッパはモンゴルの進行や黒死病(ペスト)の流行などに見舞われます。しかし幸いなことに、モンゴルはチェコまでは攻めて来ず、黒死病による被害も比較的少なかった。
国力を弱めた周りの欧州諸国を尻目に体力を温存したチェコに、さらなるチャンスが訪れます。それは神聖ローマ帝国における大空位時代の到来。それまで神聖ローマ帝国の皇帝位にあったシュタウフェン朝が断絶したのです。このシュタウフェン朝のフリードリヒ2世はイタリア政策に特に力を入れていた皇帝でした。皇帝は自らが戴冠を受けるイタリアの経営に熱心になり、ドイツ国内の統治を疎かにしていたため諸侯の力が強くなっていました。そのためシュタウフェン朝断絶後、選挙で次の諸侯を帝国の諸侯内から選ぶことができなくなってしまい、大空位時代が訪れたのです。
そこで神聖ローマ皇帝になろうとしたのがボヘミア国王オタカル2世。彼は政治・経済・軍事と万事才能に優れ、チェコの経済を発展させ、ポーランドやドイツ東部、オーストリア全土まで領土を広げた当時の中欧で最も力のある王でした。
しかし、オタカル2世の強大な力を恐れた他の諸侯は彼を神聖ローマ皇帝には選ばず、代わりに当時まだ弱小貴族だったハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝に立て大空位時代を終わらせます。
新たな皇帝が選ばれ大空位時代は終わりますが皇帝位は目まぐるしく代わり、皇帝の力は弱く、諸侯の力が強い不安定な状態がしばらく続きます。そんな中現れるのが金印勅書を制定し神聖ローマの体制を整えることになるカール4世。彼のもとでチェコとプラハは黄金の輝きを誇ることになります。