チェコブタ

チェコ プラハに長期留学した(2018.9〜2019.2)著者が、チェコ留学の魅力、チェコでの生活、チェコ観光について記すブログ。

プラハモリ#03 プラハはどのように黄金の都に!?

Dobrý den!

はじまりました、プラハモリ!今回のテーマはチェコプラハの隆盛。

チェコに長期的な王権ができ、その王権のもとチェコが繁栄を迎えるまでの歴史を辿っていきましょう。

プシェミスル王朝の隆盛

東フランク王国と従属的な同盟を組む情勢下のチェコでは、16もの公国ができ、部族間の闘争が頻発していました。しかし10世紀初頭、プシェミスル家のボジヴォイを中心にチェコはまとまっていきます。このプシェミスル家は、チェコ国内の交易ルートを抑えることで富を築いた、ヨーロッパでも有数の王家でした。

そして、彼らが目につけた場所こそがプラハ。南北に流れるブルタヴァ川と、東西を結ぶ交易ルートの交差点に位置し、東西南北の経済・文化の交わる絶好の地でした。交通の要所であるプラハの重要性に気がつくと、プシェミスル家はここに拠点を移し、商人を住まわせ、都市の繁栄に努めました。これがプラハ発展のはじまりだと言われています。

f:id:chriso:20190219195158j:plain

水鳥の集まるブルタヴァのほとり

 

  • 浅瀬では大型船舶の航行が困難。小さな船に荷を積み替えるため、大量の物資が集積される。
  • 人や馬が渡れるほどの浅瀬なら陸上交通の一部としても利用される。
  • 都市開発においても水深が浅い分、必要な土砂や労力が少なくて済む。

特に二点目に関して、プラハは東西交易ルートにおける重要な渡し場だったことから、浅瀬であることがプラハの発展の鍵だったと考えられます。

さて、拠点をプラハに移したプシェミスル家はプラハの四方を囲む丘に城砦を建てます。そしてプラハの南東の丘に建てられたのがヴィシェフラドVyšehrad。チェコ語でvyše=高い、hrad=城の意を持ちます。

f:id:chriso:20190219201020j:plain

ヴィシェフラドからの景色

このヴィシェフラドはスメタナの『Má vlast(我が祖国)』でも歌われるほどチェコナショナリズムにつながる場所であり、さらに黄金の都プラハのゆえんを紐解く鍵となる場所でもあります。それには、予言者でもあったプシェミスル家の王女リブシェにまつわるこんな伝説が伝わります。

ヴィシェフラドに移り住んだリブシェは予知夢を見た。「この地の北には丘に囲まれた街があります。その地はとても繁栄し、その永遠の輝きは空の星に届くほどになるでしょう」。この予言によってリブシェの夫プシェミスルはその地に城を建て、その地をプラハと名付けた。

チェコキリスト教

この時代において、キリスト教を受容することは、進んだ西ヨーロッパ世界の一員として認めてもらうというような意味も持っていました。9世紀末滅んだモラヴィア王国や、プシェミスル王朝の創始者ボジヴォイもキリスト教化を試みましたが、本格的にそれを進めたのがプラハ守護聖人の一人でもあるヴァーツラフ1世(在位921-935)です。

ヴァーツラフ1世はドイツのザクセン公から聖ヴィートの腕の遺骨を聖遺物として受け取り、これを安置するための聖堂を建立しました。これがあの、プラハ城の聖ヴィート大聖堂の始まりです。

f:id:chriso:20190219212039j:plain

プラハ城・聖ヴィート大聖堂

さらにヴァーツラフ1世は、ドイツから宣教師を招くなどチェコキリスト教化を推し進めます。そして東フランクの宗主権を認め(神聖ローマ帝国における領邦化)、チェコは晴れて西ヨーロッパ世界の一員として認められました。これにより、この当時脅威となっていたドイツの軍事圧力は緩和され、プシェミスル家はキリスト教布教の援助を得て国内支配を強めていきます。

ヴァーツラフ1世は弟との抗争の末暗殺されますが、国と民族を守った模範的なキリスト君主として語り継がれ、近代に入りナショナリズムが盛んになるとさらに民族主義の英雄としてとりあげられます。ヴァーツラフ広場には彼の像がありますが、この広場がプラハの春ビロード革命の舞台になったのはそんな歴史的背景もあるのです。

チェコ繁栄への道

こうして西ヨーロッパ世界の一員として認められたチェコですが、この時の国はまだ「ボヘミア公国」。それゆえチェコは領邦の一部にすぎず、王位も世襲ではありませんでした。また、教会に関してもプラハの司教座はドイツ・マインツ大司教の下におかれたため、ドイツの影響下にありました。

そんなチェコに追い風が吹き出したのが12〜13世紀。このころのヨーロッパでは、農業革命や気候の温暖化、封建社会の安定化などの要因を背景に、人口が増加し、経済活動も活発になっていました。もちろんチェコも例外ではありません。商業国家だったチェコはその恩恵を存分にうけ、好景気に沸いていました。

この波にのってボヘミア王プシェミスルオタカル1世(在位1198〜1230)は巧みな外交手段によってついに、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世からボヘミア王世襲を認められます(シチリアの金印勅書 Golden bull of sicily)。

さらに、13世紀には中央ボヘミアの街、クトナーホラで当時のヨーロッパ最大規模の銀鉱山が見つかります。ヨーロッパ諸国はクトナーホラの銀を求め、チェコはさらに繁栄しました。

f:id:chriso:20190228230821j:plain

クトナーホラ・聖母マリア教会。豪華な内装に当時の繁栄が窺われます

13世紀から14世紀にかけて、ヨーロッパはモンゴルの進行や黒死病(ペスト)の流行などに見舞われます。しかし幸いなことに、モンゴルはチェコまでは攻めて来ず、黒死病による被害も比較的少なかった。

国力を弱めた周りの欧州諸国を尻目に体力を温存したチェコに、さらなるチャンスが訪れます。それは神聖ローマ帝国における大空位時代の到来。それまで神聖ローマ帝国の皇帝位にあったシュタウフェン朝が断絶したのです。このシュタウフェン朝のフリードリヒ2世はイタリア政策に特に力を入れていた皇帝でした。皇帝は自らが戴冠を受けるイタリアの経営に熱心になり、ドイツ国内の統治を疎かにしていたため諸侯の力が強くなっていました。そのためシュタウフェン朝断絶後、選挙で次の諸侯を帝国の諸侯内から選ぶことができなくなってしまい、大空位時代が訪れたのです。

そこで神聖ローマ皇帝になろうとしたのがボヘミア国王オタカル2世。彼は政治・経済・軍事と万事才能に優れ、チェコの経済を発展させ、ポーランドやドイツ東部、オーストリア全土まで領土を広げた当時の中欧で最も力のある王でした。

f:id:chriso:20190228235349p:plain

オタカル2世の統治領土

しかし、オタカル2世の強大な力を恐れた他の諸侯は彼を神聖ローマ皇帝には選ばず、代わりに当時まだ弱小貴族だったハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝に立て大空位時代を終わらせます。

新たな皇帝が選ばれ大空位時代は終わりますが皇帝位は目まぐるしく代わり、皇帝の力は弱く、諸侯の力が強い不安定な状態がしばらく続きます。そんな中現れるのが金印勅書を制定し神聖ローマの体制を整えることになるカール4世。彼のもとでチェコプラハは黄金の輝きを誇ることになります。

 

前の記事 ブラタモリ 

chriso.hatenablog.com

 

プラハモリ#02  チェコは人々の楽園?!

Dobrý den! 

f:id:chriso:20190112182834j:plain

プラハ城からプラハ旧市街を眺める


はじまりました、プラハモリ!今回のテーマはチェコ前史。チェコの地理的条件とともに、チェコに長期的な王権ができるまで(〜9世紀)を辿っていきましょう。

恵まれた地域

チェコの冬の寒さは厳しいです。(今、このブログを書いている間も外は雪、気温は-4℃)しかし、春から秋にかけてのチェコの気候は快適だと感じます。突き抜けるような青空が広がり、真夏でも日陰にさえ入れれば涼しい。

また、チェコは水にも恵まれた地域です。首都プラハを流れる、あの有名なヴルタヴァ(モルダウ)川をはじめ、エルベ川、エーゲル川、モラヴァ川など豊富な水量を誇る河川の流域なのです。さらに、これらの川のうち他の国に流れ出てしまうのはエルベ川のみ。次の項目でもみますがチェコは全体が盆地のような地形のため、水が集まる場所となっているのです。

そんな気候・水利条件のもと、今のチェコがある地域は採集、そして農耕・牧畜に適していました。それゆえ遠い昔からさまざまな人々がこのエリアに住み着いてきました。10万年以上前の旧石器時代の遺跡もチェコで見つかっています。

 ボイイ人の土地・ボヘミア

f:id:chriso:20190112072924p:plain

チェコは周りを山に囲まれた、お椀の中のような地形に特徴があります。上の画像を見ると一目瞭然。特に西北部にかけては国境の形が見えるぐらいはっきりと、山がチェコの国土を区切っていることが分かります。
この山々が「ボヘミアの森」。チェコとドイツの国境を隔て、南北に300kmも続く壮大な森です。「ボヘミア」という地名はケルト人の一部族とされるボイイ人に由来します。彼らは紀元前4世紀ごろローマに侵入しましたが敗れ、ボヘミアの森に定住するようになりました。

その後、チェコにはフン族やゲルマン系の人々が住み着きそれぞれの部族王国を建てましたが、ゲルマン人の大移動の波の中で彼らもまた移動して行きました。一方、ボイイ人はゲルマン人に圧迫されカルパチア(現在のハンガリー)方面に移動しました。それでもこの土地はボイイ人の土地、ボヘミアの名前が残りました。

ボイハエムムという地名が残って、たとえその他に住む者は変わったにせよ、なお古い思い出が記憶されている(タキトゥスゲルマニア』)

スラブ系民族の到来

さて、ゲルマン人も移動したチェコにはスラブ系の人々が入ってきます。ここに中世に作られたひとつの伝説があります。

遊牧民族がヨーロッパを放浪していた時代、とあるスラブ系部族はその族長チェヒに率いられチェコに到達した。移動で疲れきったその部族は丸い玄武岩の丘を登り、何マイルも続く田園地帯の景色を眺めた。チェヒは「牛乳と蜂蜜」に恵まれた肥沃なこの土地を住処にすることに決め、この土地をチェコと名付けた。

この伝説は全くの作り話ですが、チェコ人のこの土地に対する愛着を窺えます。

この伝説に出てくる丘はジープというプラハの北にある標高450mほどの小高い丘なのですが、地形図でみるとこの丘がなぜ伝説の場所になったのか分かります。

f:id:chriso:20190112173208j:plain
ジープの丘の周りは低く、この丘だけがヘソのようにぽつんとそびえ立っているのです。この土地にやってきた人々はジープの丘を畏怖したでしょうし、この丘が今もチェコ人のメッカのような存在になっているのも頷けますね。

チェコに王朝ができるまで

f:id:chriso:20190112183850p:plain

サモ王国の領土

630年ごろ最初のスラブ人の国家とされるサモ王国が建てられます。6世紀からチェコにはアヴァール人が侵入していましたが、商人サモ率いるチェコ人がアヴァール人を破り、現在のチェコからスロバキア西部までを領域とする国家を形成しました。しかしこの王国はサモの死後すぐ崩壊し、チェコは約200年の暗黒時代へと突入します。

再び記録が現れるのは9世紀。フランク王国カール大帝に、ボヘミアモラヴィアの防衛を条件にチェコ人の力のある部族が貢納するようになりました。こうして西側世界との繋がりを得たチェコにはキリスト教が伝播していきます。

f:id:chriso:20190112183938p:plain

モラヴィア王国の領土

こうした中で、キリスト教を受け入れつつ自分たちの国家を作ろうとする動きが出てきます。これがチェコ初の安定した領域を持つ国家「モラヴィア王国」の始まりです。この王国は9世紀末マジャール人の侵攻を受け滅亡してしまいますが、後のチェコ王朝の祖となるとともに、今日でもモラヴィアの人々のナショナリズムの源ともなっています。

生き残ったチェコ人部族はチェコの西側ボヘミア方面へと逃げ、東フランク王国オットー1世の助けを得てマジャール人を討ちのめします。その後チェコは東フランクに従属しますが10世紀初頭、ついにチェコスロヴァキアの建国まで約1000年続く「ボヘミア王国」が産声を上げます。

 

〈参考〉

貧民の路地がアートの辻に変わる 田中充子

Tips for trips:Říp(prague TV)

図説 チェコとスロヴァキア (ふくろうの本)

プラハを歩く (岩波新書)

 

←前の記事  01

 次の記事ブラタモリ 03 

 

プラハモリ#01 チェコは世界の中心?!

Dobrý den! 

はじまりました、プラハモリ!

f:id:chriso:20190107073806j:plain

舞台は中欧チェコ。中世の街並みをそのまま残す首都プラハには国内外から年間750万人を越える観光客が訪れます。名産品はビールやボヘミアンガラス、ガーネット。スメタナドヴォルザークをはじめとした作曲家や、フランツカフカやカレルチャペックといった作家も有名です。

国土面積は北海道と同じぐらい、人口は1000万人ほどのチェコが世界の中心だなんてどういうことでしょう?

歴史地理を専攻するチェコ留学中の女子大生が、プラハをプラプラ歩きながら、チェコの魅力と歴史を紐解きます。

ヨーロッパの中心

f:id:chriso:20190107065932j:plain

ヨーロッパの地図を広げ、先入観なしにその中心を指差すとしたらきっとチェコが選ばれるはず。チェコはドイツ、オーストリア、スロヴァキア、ポーランドの4国と国境を接しています。

そんなヨーロッパの中心にあるチェコは、南北に流れるブルタヴァ川と東西を結ぶ交易ルートの交差点に位置し、とおい昔から東西南北の経済・文化の交わる地点となってきました。

さまざまな文化が交わっていることはチェコ料理を見ても頷けます。ちょこっと寄り道。

トルデルニーク

f:id:chriso:20190108055525j:plain

チェコ伝統の」円柱状の焼きドーナツのような屋台菓子。観光地では必ず見かけますがチェコ人に言わせるとトルデルニークはチェコのものではないそう。そのルーツは諸説ありますがルーマニアハンガリーにかけての東欧にあるようです。

グラーシュ

f:id:chriso:20190108055559j:plain

レストランのチェコ伝統料理に欠かせない一品。いわゆるビーフシチューですが、ドイツやオーストリア料理がもとになっています。グラーシュってドイツ語ですしね…。

世界史の中心

ヨーロッパの中心に位置するチェコは、世界史上重要な事件の舞台にもなってきました。

宗教改革の先駆けとなるフス戦争や、ヨーロッパ中を揺るがす三十年戦争、そして社会主義下からの自由化を求めたプラハの春…。ヨーロッパ、そして世界を巻き込む歴史上の大事件に地政学的にチェコは巻き込まれやすい場所にあるのです。それゆえチェコは小国でありながら、この国の歴史を振り返ることで世界史の要点をたどることができます。いわば世界史の中心!

プラハモリでは今後、チェコの歴史を名所旧跡とともにたどっていきます。

世界の中心!な単語

チェコ語を語源にした世界言語には、ピストル、ドル 、そしてロボットがあります。

主要な武器・ピストル(銃)

ピストルの語源はチェコ語で口笛を意味するpištala(ピシュタラ)にあるといいます。1420年代フス戦争で使われた手持ち銃がそう呼ばれていたのがその始まりだそう。

世界の中心通貨・ドル

ドルの語源はチェコの銀山で採掘された銀を使った通貨ヨアヒムスターラー、略してターラーに由来します。そのオランダ語形ドルラルが、今使われている通貨単位ドルになりました。

アメリカドルは文字通り世界の中心通貨になっています。その「ドル 」もチェコに語源があるなんて驚きですよね。

労働力の中心に?・ロボット

ロボットという言葉は、上述のチェコの作家カレルチャペックが、チェコ語で強制労働を意味するrobotaをもとにつくった造語です。

これからの世界の労働力の中心になっていくだろう(もうすでになっている?)ロボットの語源もチェコ語にあったのです。

 

→次の記事

 

chriso.hatenablog.com