プラハモリ#02 チェコは人々の楽園?!
Dobrý den!
はじまりました、プラハモリ!今回のテーマはチェコ前史。チェコの地理的条件とともに、チェコに長期的な王権ができるまで(〜9世紀)を辿っていきましょう。
恵まれた地域
チェコの冬の寒さは厳しいです。(今、このブログを書いている間も外は雪、気温は-4℃)しかし、春から秋にかけてのチェコの気候は快適だと感じます。突き抜けるような青空が広がり、真夏でも日陰にさえ入れれば涼しい。
また、チェコは水にも恵まれた地域です。首都プラハを流れる、あの有名なヴルタヴァ(モルダウ)川をはじめ、エルベ川、エーゲル川、モラヴァ川など豊富な水量を誇る河川の流域なのです。さらに、これらの川のうち他の国に流れ出てしまうのはエルベ川のみ。次の項目でもみますがチェコは全体が盆地のような地形のため、水が集まる場所となっているのです。
そんな気候・水利条件のもと、今のチェコがある地域は採集、そして農耕・牧畜に適していました。それゆえ遠い昔からさまざまな人々がこのエリアに住み着いてきました。10万年以上前の旧石器時代の遺跡もチェコで見つかっています。
ボイイ人の土地・ボヘミア
その後、チェコにはフン族やゲルマン系の人々が住み着きそれぞれの部族王国を建てましたが、ゲルマン人の大移動の波の中で彼らもまた移動して行きました。一方、ボイイ人はゲルマン人に圧迫されカルパチア(現在のハンガリー)方面に移動しました。それでもこの土地はボイイ人の土地、ボヘミアの名前が残りました。
ボイハエムムという地名が残って、たとえその他に住む者は変わったにせよ、なお古い思い出が記憶されている(タキトゥス『ゲルマニア』)
スラブ系民族の到来
さて、ゲルマン人も移動したチェコにはスラブ系の人々が入ってきます。ここに中世に作られたひとつの伝説があります。
遊牧民族がヨーロッパを放浪していた時代、とあるスラブ系部族はその族長チェヒに率いられチェコに到達した。移動で疲れきったその部族は丸い玄武岩の丘を登り、何マイルも続く田園地帯の景色を眺めた。チェヒは「牛乳と蜂蜜」に恵まれた肥沃なこの土地を住処にすることに決め、この土地をチェコと名付けた。
この伝説は全くの作り話ですが、チェコ人のこの土地に対する愛着を窺えます。
この伝説に出てくる丘はジープというプラハの北にある標高450mほどの小高い丘なのですが、地形図でみるとこの丘がなぜ伝説の場所になったのか分かります。
ジープの丘の周りは低く、この丘だけがヘソのようにぽつんとそびえ立っているのです。この土地にやってきた人々はジープの丘を畏怖したでしょうし、この丘が今もチェコ人のメッカのような存在になっているのも頷けますね。
チェコに王朝ができるまで
630年ごろ最初のスラブ人の国家とされるサモ王国が建てられます。6世紀からチェコにはアヴァール人が侵入していましたが、商人サモ率いるチェコ人がアヴァール人を破り、現在のチェコからスロバキア西部までを領域とする国家を形成しました。しかしこの王国はサモの死後すぐ崩壊し、チェコは約200年の暗黒時代へと突入します。
再び記録が現れるのは9世紀。フランク王国のカール大帝に、ボヘミアとモラヴィアの防衛を条件にチェコ人の力のある部族が貢納するようになりました。こうして西側世界との繋がりを得たチェコにはキリスト教が伝播していきます。
こうした中で、キリスト教を受け入れつつ自分たちの国家を作ろうとする動きが出てきます。これがチェコ初の安定した領域を持つ国家「モラヴィア王国」の始まりです。この王国は9世紀末マジャール人の侵攻を受け滅亡してしまいますが、後のチェコ王朝の祖となるとともに、今日でもモラヴィアの人々のナショナリズムの源ともなっています。
生き残ったチェコ人部族はチェコの西側ボヘミア方面へと逃げ、東フランク王国オットー1世の助けを得てマジャール人を討ちのめします。その後チェコは東フランクに従属しますが10世紀初頭、ついにチェコスロヴァキアの建国まで約1000年続く「ボヘミア王国」が産声を上げます。
〈参考〉
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